逃げて追われて捕らわれて
094:扉を開けて飛んでいって、私のことなど気にしなくて良いから
意識がぼやける。ただ何かを呑んだということだけは判った。瀧の体は性質と同じように容易には拓かない。寝台の上で仰臥してなお、相手の男はお前の体は堅いという。それが寝台まで保たなかった。誘われるままに肌を合わせて脚を開いた。口数が少ないたちであるから畢竟嬌声も少ない。たまに漏れる音を聞いて相手は悦び愉しんだ。器官の欠損や欠落を疑わせるほど瀧にそういう衝動や傾向はない。頭は動くし情もあるのだが明確に体へ結びつかなかった。だが欲がないわけではないようで思い出した様にそれは瀧の制止を振り払って暴走する。その切っ掛けもタイミングも、測ったように訪い訪ねてくるのが鹿狩雅孝だ。
鄙でも都会でもない中途半端なところで、駅から少し入り組んだところに骨董店を構えている。売上を伸ばそうとする努力は皆無で来店するのは常連、しかもその来店の間隔さえ間遠だという。いつなくなっても誰も困らない。隣近所とは上手くやっているようで追い出されそうだというような話は聞かない。近所や知己との交際の一切を面倒がって遮断した瀧とはその辺りの世渡りの上手さが違う。屋号を神狩屋といい瀧と神狩屋の双方が所属する団体など基本的な知り合いには屋号で呼ばせているようだ。本名と屋号の綴りも韻も似ているから不自然さは感じない。何度か訪った事があるが客商売を疑うほどの人気の無さに柄にもなくどうやってやっていくのだろうなどと思った。動いた形跡のない骨董と気配に常連客の存在さえ疑わしい。陶芸で身を立てる瀧の家のほうがよほど出入りがあると思ったものだ。
瀧は視線を巡らせながらゆっくりと体を起こした。根幹を貫かれて揺さぶられた体はグラグラと酔ったように定まらない。何か含まされていればなお、だ。衣服の散り散りさが性急と乱暴さを示したが感想はない。自分のような偉丈夫を下に敷いて何が楽しいのかは判らない。感情があっても表現方法に乏しい瀧のそれはほとんど摩滅してしまってそこに何かの意図を読み取るのがうまくない。かろうじて引っかかっていたシャツは本当に引っかかっているだけだ。袖を通してあるから脱げなかっただけである。茫洋ととろけたまま瀧は目の前で色々とひっくり返している神狩屋を眺めた。
「紅茶はないねぇ」
買ってないと思う。瀧は基本的にコーヒーを好むし淹れる手順に手間を掛けるのを嫌うから神狩屋とは方向が違う。神狩屋の店に行けば切らさずに茶葉があるし手間もかけたものを飲める。
ばりばりと短い黒髪を掻くようにかき回してあたりを見る。現状はどういう状況なのか。心的外傷と切り離せない特異な能力を備える身としては、無自覚は一番怖い。何がどう働いたのか。他を侵すように壊していく力であるからなお奔放な解放を繰り返す訳にはいかない。気配をうかがう瀧に神狩屋はふふっと口元だけで嘲笑った。他者には見てくれを作ろうが瀧を相手にした時の神狩屋は驚くほど冷淡だ。神狩屋が見栄や外見を手放した期間を共に過ごしたことが影響しているのだろう。綺麗なところばかり見てきたとも見せてきたとも思ってない。遠慮も憚りもない。だから神狩屋は瀧を抱くのかもしれなかった。
「修司、せめて恥ずかしがってくれたら僕も反応のしがいがあるのに」
「気持ち悪い」
飾らないが自分がどういうなりかくらいは承知している。合うか合わぬかくらい判る。神狩屋は溜め息をついたが呆れているというより面白がっている。口の端が穏やかに釣り上がって常々浮かべている薄い笑みが張り付いている。角のない眼鏡は彼の装飾と偽りだ。見た感じ人が好さそうだろう、と自慢気な神狩屋の所業はけして人が好いとはいえない。
体を洗いたかった。避妊具を使われていてもあてどなく虚を穿たれた体は開きっぱなしで異質なものでの再設定が必要だった。水でも湯でもいいから浴びたい。腹や胸部に散った白濁も洗い落としたかった。屈服の証を洗浄したい。壁に背を預けて瀧は力を抜いた。背骨が軋むたびに腰まで連動する。知らずに息が乱れた。
「色っぽいね」
反射的に口元を拭う。ぱりぱりとした透明な膜が剥離していく。唇から頤を覆うそれを見て神狩屋はますます笑みを深める。神狩屋が瀧のそばへ来る。逃げることさえ無為で瀧は逆に神狩屋を見据えた。神狩屋の白くて細い指が瀧の頤を抑える。
「かわいいよ」
唇を吸われた。刹那に境界線が消えた。興奮と衝動で上がった体温はその認知範囲さえ広げる。どこまで自分の体であるかが曖昧になる。まして抱かれて貫かれればなお、その誤差は顕著になる。入り込んだ異物は体温と同化する時に瀧は自分の体を見失う。平素から慣れ合いや触れ合いに慣れていないといってしまえばそれまでだが次元が違うような気がしている。穿たれたものであっても引かれた線を圧して侵す異物はどこまでも異物で、なのに双方で体温が上がってその気になった途端にその境界は霧のように消え失せる。骨の守りがない腹を圧せばそのままとぷんと沈むのではないかと思うほど体は柔らかくなるし識別も難しい。熱を吐き出しあって分離してもしばらくは擬似同化によって身動きがとれない。腕も足もあるし脳が指令を送れば動く。だが感覚として自分のものである自覚が希薄だ。神狩屋はいつもその辺りに瀧を落としこんで楽しんでいる。
神狩屋の手がグイグイと腹を圧す。そのままそこへ入れると思っている手加減だ。払いのけるとのしかかってくる。普段は控えめでなんともないのに遠慮を取り払うだけでこうも扱いに難しくなる。しかも世間的な評判となりを承知しているから目立つような真似はしない。誰も神狩屋をこんな面倒なやつだとは思っていない。恥部さえ晒しあった瀧を相手に神狩屋は子供や女がわがままで相手を試すように無垢で手加減さえなく瀧を抑えつけてくる。嘔吐く瀧に神狩屋は鷹揚に微笑んだ。
「修司は可愛いなぁ」
胸を這う手つきは脚の間と変わらない。艶めくのか気付いていないのか判らないし、神狩屋の性格ならば知っていてやっている可能性さえある。汗で冷えた瀧の体をまた熱くしようとしている。だが体温を上げたところで神狩屋がそれに付き合う様子はない。瀧は神狩屋の手を払い落とした。まだ腰が立たないが時間が経てば回復する。これまでもそうだった。
残念そうな神狩屋を押し離す。男二人で呆けるなど悪目立ちしすぎる。場所が瀧の自宅でありそれが山奥にあることを考えてもだ。仕事の助手であり様々に瀧の暮らしぶりを成り立たせる女性に目撃されるのは避けたい。訝しがられるだけならまだしも瀧にもある程度の見栄がある。四つん這いで衣服をかき集めるべきか待つべきか悩む。助手の彼女が家を空けるというので瀧は話題を振った神狩屋にそう言ったのだ。すぐさま駆けつけた神狩屋は寝室まで行かずに瀧の脚を砕いて抱いた。その末路はまさに今だ。彼女がすぐに帰ってくるようなことはないがそれだけに間延びした感覚の引き締めが難しい。居座られても面倒だと思う。神狩屋は小首を傾げてから言った。
「カゴだね」
「は?」
脈絡どころか何がどう反応してその言葉に行き着いたのかも判らない。神狩屋は馬鹿ではないし一定の分野を得意とする偏りのある博識だ。そちら方面かと思いながらよく判らないからなんだと聞き返す。
「修司は籠の中の鳥だなぁと思ったんだ。こんなトコロに住んでさ。付き合う人間も少ないだろう。知り合った時からそうだけど今もそういうところは変わってないし。修司はある意味純粋培養だなぁって思ったんだ」
全然手垢もついてない。最後の一言を神狩屋は殊更艶っぽく瀧の耳朶へささやいた。僕が初めてかな? 違ってもいいけどそうだったら嬉しいな。俺みたいのを抱く奴がいるか。眼の前にいる神狩屋は特殊な例だ。そもそも神狩屋と瀧の所属する団体自体がある意味特殊なのだ。それを前提にしている関係なので数に入れるのは気が引ける。
陶芸を志した頃は驚くほど個人主義だったし長じてからもその辺りの没交渉具合は変わってない。師匠が半ば終わり際に取った幼い弟子を兄弟子たちは何かとかまったが瀧の方から働きかけることは数えるほどしかなかった。もう少し愛想が良ければな、とは兄弟子が共通でいう言葉だ。瀧の作品と身なりをセットにして売り出す切っ掛けがほしいとぼやくのを瀧は黙殺した。神狩屋は微笑みなのか嗤いなのか曖昧に口元を弛めている。表情に乏しいのは同じだが触りの印象はだいぶ違う。瀧は仏頂面で拒絶するのに対して神狩屋は曖昧に笑んだ。笑はそれだけで相手に受け入れの意思表示さえ含ませる。師匠は瀧の表情に構わなかったし、そのことで注意もされなかったから瀧はそのまま大きくなった。結果として威圧的であるとかとっつきにくいとか言われている。
「ねぇ、出してあげようか。このかごの中から」
紅く照る神狩屋の唇が嘯いた。神狩屋は読書や調査を好む傾向として日焼けはしていないし肌も白い。書庫にこもるタイプの調べ物が多いのでより顕著だ。まして日常的な世話が必要な子供を二人ほど抱えていると聞く。体の機能というより特殊能力とその起因によって日常的な動作が難しいのだという。一人は外界からの刺激を全く受け付けず、もう一人は無自覚的に記憶を失うという。そういえばその子供たちはどうして来たのだろうと思いながら瀧はそれを問わなかった。訊きたげな瀧の目線を受けて神狩屋はうん、と言った。あの子たちは補助が必要だけれど常にそばへ寄り添うようなものではないからね。少しくらい不便を覚えさせないと僕がいなくなったら困るだろう。したり顔だがそれは体のいい言い訳だなと思う。言葉にはしない。機能を失いかけの状態である場合、補助が欠損を助長させる場合があるというのを聞いたことがある。人は少し不便なくらいで丁度いい。年かさで時代をはき違えた師匠のこぼした言葉を思い出す。飢餓期を生きた年配にありがちな説教だ。
「僕のところへ来るかい? 子供の世話を手伝ってもらうけど。颯姫くんも夢見子くんも手順を覚えれば大したことはないよ」
あとは何人か騎士が、来るけれど。だがその騎士の分類に自分が入ることを瀧は識っている。それ故の特異能力。それ故の孤独。それ故の負傷。瑕に見ないふりをして新たな瑕を刻んで生きていく。いつか傷が容量を超えて暴走するのを期待しながら。抑え込みながらどうして自分がこんな目に、と思わないと言ったら嘘になる。自分が引き起こしたことだと納得しながら、その後にかぶさってくる社会的な対応ややりくり、傷を抑えながら塞ぎきらずにその力を使用する矛盾に喘ぐ。この心的外傷を塞ぎ切って治癒して、一般生活になんの支障も来さなくなったらきっと、特異な能力は消えてなくなり同時に存在理由も消える。痛みと肉の断面が俺を支えている。
「いやだ」
瀧の拒絶に神狩屋は怒らなかった。曖昧に笑って、そうかいと言った。瀧の能力は瀧個人というより団体がより強く欲している。役に立つ、のだ。これで瀧の能力が衰えたり失われたりした場合、団体や騎士たちは新しい後始末を模索しなければならなくなる。そういう意味で瀧の体は公のものだった。神狩屋もそれを知っているはずだ。
「そう言うと思ったけどね」
ふふ、と神狩屋は微笑みを絶やさない。眇められた茶褐色の目も弛んだ赤い唇も室内を活動拠点にする白い肌さえも。神狩屋は瀧の言動の傾向などとうに掴んでいてそれでなお試すように修司へ訊くのだ。おまえは、どうする。それでいて神狩屋が受諾する返答は限られていて間違えば瀧はすぐさま捨てられるに違いなかった。
神狩屋は婉曲にだが確実に瀧を支配しつつある。無自覚なものほど性質が悪い。無理強いされている自覚がないから不満も出ない。
「何もかも忘れて二人で暮らせたら、いいね」
眠って起きて、修司がそばに居てくれたら嬉しいな。何年か前までそんな生活だ。神狩屋は一定期間瀧の世話になっていた。費用を含めて、起床や食事といった基本的な習慣がごっそり抜け落ちた神狩屋を瀧のところで寝起きさせた。人づてに好きな人を亡くしたのだと聞いた。瀧も好きな人を亡くしていたから好意的だった。傷や恥部を曝け出しあった者同士でいつの間にか惹かれ合ってこうして肌まで合わせている。わがままや無理強いを強いた相手に利口ぶることさえできない。幼い頃に世話をしてくれた人と会う時のはにかみやもどかしさに似たそれを、昏く秘めている。
「修司が」
瀧は耳をふさぐ代わりに神狩屋を押しのけた。突き飛ばすと読書に痩せた体が傾ぐ。
「言うな」
言わずに何処かへ、行ってしまえばいい。神狩屋の目が一瞬集束して見開かれたがすぐに嘲笑った。
「しゅうじ」
声が好きだと、思った。
かごの中で羽ばたくものが
君の声で外へ行く
声が、好きだ
《了》